自分には自分の文体があるということをつくづくと感じる

人生(LIFE)
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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20代のころからの親友で、いまも出版業で働くM君から、いまから十年以上前にこんなことを言われたことがある。

「モクソン君の文章はブログやミニコミだとそこそこ面白いけれど、仕事で書いた文章を読むと、同じ人が書いた文章とは思えないほどつまらない」。当時はどのような記事を書いていたのだろう…。よく思い出せないが、M君はとても頭脳明晰なので、彼が文章に感じることは信じるに値すると思うことにしている。指摘を受けた自分も、当時は、なるほどつまらない文章を書いているなと思ったものだ。

自分がつまらない文章を書き始めていると感じたら、要注意。楽しいと感じたことは楽しいと表れるし、楽しくないことは楽しくないのだ。という意味で、私はまったく子どもである。出版業から離れ、大学で働いてみたり、ITめいた仕事をしたりして仕事として書くことからは離れていた。 そんな「書くこと」も、縁あって40代を迎えて、ぼちぼちとと、ふたたび仕事として付き合うことが多くなった。

よく言われることだけど、書くことは生きることだと私も思う。もしも文体を変えたいなら、生き方自体を変えないと変わらないだろう。文体が変わらないなら、その変わらない文体を愛せばよい。生き方なんて、早々変わるものではない。まあ、ありのままの自分自身(文体)を愛することも必要なのかもね。文体を変えることは、危険なことだと思う。

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