スマートフォンが普及し、誰もがいつでも記録・発信できる時代になりました。便利さと引き換えに、私たちはいつしか「見られる存在」になっています。1969年生まれの私は、記録されない時代と記録されすぎる時代、その両方を生きてきました。古い写真が教えてくれた時間の重み、そして「静かに生きる自由」を守るという選択——ひとつの視点をお伝えします。
私は1969年生まれです。子どもの頃の生活と今の生活を比べると、まるで別世界のように変わりました。
黒電話が家の中心にあり、連絡手段は限られ、写真は特別な時にしか撮られない。そんな時代を私は確かに生きてきました。
1995年、私は初めて携帯電話を手にしました。docomoの携帯が当選し、嬉しさと驚きが入り混じったのを覚えています。その後、携帯電話は急速に進化し、カメラが付き、メールができ、2000年代にはSNSが始まり、携帯でmixiを使うようになりました。そして2012年、私はiPhoneへと移行しました。
技術は便利になりましたが、その便利さと引き換えに失われたものもあります。
古い写真が教えてくれた「時間の重み」
数年前、母の実家を訪れた日のことです。
その日は祖父母のお墓参りをした帰りで、母の実家に立ち寄りました。 仏壇のそばには、古くて色褪せた写真が何枚も置かれています。 そこには、母が子どもの頃の姿が写っていました。 写真の裏には、祖母の丁寧な字で子どもたちの名前が書き添えられています。 その文字を見た瞬間、胸がぎゅっと締めつけられました。 さらに、私が生まれる前に他界した祖父の写真もありました。
私は祖父の顔を写真でしか知りません。けれど、その一枚の写真の中で、祖父は確かに生きていて、笑っていて、家族の時間の中に存在しています。写真を手にしながら、ふと考えました。
「私はこの時代、どこにいたのだろう」
「母は70年以上、私はもう半世紀以上生きてきたのだな」
色褪せた紙の中に閉じ込められた時間の重さに触れた瞬間、涙がこぼれました。今のように、いつでもどこでも手軽に撮影できる時代ではなかったからこそ、写真には“残す理由”があり、“残す意味”がありました。
黒歴史を“記録されない”という自由
私が若い頃、恥ずかしい出来事は人の記憶には残っても、写真や動画として残ることはほとんどありませんでした。だからこそ、
- その場限りで終わり
- 時間とともに薄れ
- 自分の中でそっと処理できる
そんな「忘れられる自由」がありました。
今のように、誰もがスマホを持ち、誰もが撮影者であり発信者である時代なら、撮られたくない瞬間が残り、思い出したくない場面が拡散されていたかもしれません。そう考えると、私は本当に「若い頃にスマホがなくてよかった」と思うのです。

SNSとの距離感:私は“見るだけ”で十分
私はSNSを使っていますが、投稿はしません。理由ははっきりしています。
- 交友関係を広げたくない
- 嫌いな人に探されたくない
- 個人情報を見られたくない
そのため、
- タグ付けは拒否設定
- イベント参加表明はしない
- 名前で検索しても同姓同名しか出ない
- Facebookはプロフィールロック
こうした設定を徹底しています。SNSは便利ですが、私にとっては「生活の透明度を自分で決めるための道具」であり、他人に自分を見せる場所ではありません。
“静かに生きる自由”を守るという選択
私は、誰かに見られるために生きているわけではありません。自分の生活、自分のペース、自分の尊厳を守るために、SNSとは適度な距離を置いています。技術が進化し、世界がつながりすぎた今だからこそ、「記録されない自由」「忘れられる自由」「見せない自由」を大切にしたいと思っています。
母の古い写真を見たあの日、私は自分が生きてきた時間の重みと、家族の歴史のつながりを深く感じました。そして、これからも静かに、穏やかに、自分の世界を守りながら生きていきたいと思っています。

