【東日本大震災】帰宅困難者がタクシーで帰ろうとしたら

コーヒーの話題
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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2011年3月11日、帰宅困難者が身を休める早稲田大学大隈講堂(Photo by 快適暮らし研究会)

ぶりっ、ぶりっ、ぶりっ、ぶりっ、ぶりっ。

エンジンの情けないリズムが、タクシーの後部座席へ小さく伝わってきます。この鉄の塊はちっとも動こうとしません。いつもにまして安全運転だからでしょうか。いいえ、大渋滞だからです。

10キロ移動で5万円

道の真ん中で動かない車車車、車道にまであふれる人人人。2011年3月11日、宵(よい)の東京は帰宅困難者であふれていました。

早稲田(わせだ)周辺で仕事をしていた私は、日没ごろに妻と落ち合いました。妻も都内で仕事をしています。運良くタクシーもひろえました。家まで直線距離で10キロ程度です。私たちは運がいい、すぐに家に帰れると思っていました。車内で無慈悲に上がり続ける料金メーターを直視するはめになりました。渋滞で車がなかなか動きません。

「いやァ、ほんと、混んでるなァ」

運転手さんは苦笑します。初老のおじさんです。お顔は浅黒く、無精ひげが生え、前歯がありませんでした。苦労人のようです。言葉こそ「困った。実に困った」と口にしますものの、どうみても喜んでいました。お顔からニコニコがこぼれているのですもの。上機嫌と言ってもいいほどです。ときどき、軽いジョークまで飛び出します。ハンドルをにぎっているだけで、料金メーターはカウントしてゆきます。

運賃が50,000円を超え、結局歩くことに

料金メーターが50,000円を超えたとき、私たちは歩く決意をとうとうしました。残りの距離は2キロ程度です。

日付は、まだ11日。暗い夜道を歩きながら、仙台(せんだい)の実家に電話をかけました。しかし、つながりません。夕方15時頃に、弟と連絡がとれたきりです。弟はこの時、実家の親類は無事と言っていました。

家にたどりつき、ニュース映像を見て衝撃を受けました。見馴れた閖上(ゆりあげ)港から名取(なとり)川をさかのぼる津波の映像です。波が向かう遠い先に、実家が映っていました。映像は途中で終わってしまったので、実家は津波にのみ込まれてしまったと思いました。

あの日の出来事

震災から2日目。やっと親類と連絡がとれました。津波は仙台東部道路でとまり、実家までこなかったと言いました。心底安心しました。

忘れられないのは、韓国でコーヒーショップを営む呉さん姜さんご夫妻からも励ましをいただいたことです。さまざまな友人知人たちと、安否を気づかい合うことでつながりを感じました。タクシーのなかでも、家族の結束を強めた歴史的な1日でした。

帰宅が難しい場合は、観念してあえて帰らない、動かないことも有効だと思います。

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