人生の節目だったり、大切な計画が控えているときには、温泉に行くだろう

人生(LIFE)
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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 なにもしないことは、たいてい苦痛なもんだ。たとえば、9時間ぐらい空を眺めてみるとか。たとえそれが見事なエンパイアステイトビルの勇姿だったとしても苦痛だ。部屋にじっと座りつづけるとかも。

 でも、気持ちや心を整理するため、ときに静かな場所が必要だ。気持ちを落ち着かせることができる適切な場所、気持ちがソワソワし始めたらいさめてくれる適切な指導者が必要だと思う。だから座禅、気功、ヨガ……といった具合にさまざまな教室が世には存在するのだろう。ただ、教室通いは、横着者の私にややハードルが高い。

 なにもしないことをすることに苦痛を伴わず、むしろ親しみ深い素敵な場所。その一つは、温泉じゃなかろうか、と考えた。

 いまから数年前、妻と宮城県の山奥にある温泉宿へ行った。相部屋で家族連れのグループがが雑魚寝をしていた。その光景は、海辺に寝そべるゾウアザラシの一群のようだった。せっかく温泉宿に来たのだから、元をとろうと何度も温泉に入るなんてことはしなくても良いことと、このアザラシの光景から教えられたのだ。

 相部屋で雑魚寝をしながら、テレビのワイドショーをBGMにして、ただゴロゴロとしていればいいのである。周囲にはパソコンもなく、携帯電話の電波もつかみづらいような僻地だった。

 その日、私はいつもにましてゾウアザラシであった。妻も、周りの人々もであった。なにもしなかった。お菓子を食べて、宿で食事をとり、時々風呂に入り、ときに雑談をして、また眠るのであった。

 このような楽しいプチ監禁こそは、温泉の面白みであり、喜びであるだろう。私は、山奥で風にそよぐ木々を、露天風呂に入って見つづけた。温泉は、新しい計画を練るときにも素晴らしい瞑想的な環境となるだろう。

 人生の節目や大切な計画が控えているときには、温泉に行く習慣をつけようと思うのだが、今のところなにもしていないのだった。

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