すでに東京に住んでいるのだけど、いまでも東京へ行きたいと思うことがある

随想
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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温泉と人生、そしてシモーヌ・ヴェイユ

毎年まいとし、温泉旅行に行く計画を練っています。予定は未定とはよく言ったもの。実行したためしがありません。結局は面倒くさくなってしまい、近所の銭湯で満足してしまうのです。いったい、いつになったら温泉旅行に行けるのでしょうか。

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世界の中心がないように、東京なんて存在しない

 学生時代は旅行系のサークルにいました。法政大学の屋上でおしゃべりをしたり、または本郷にある東大安田講堂前での深夜のキャンプ企画に参加したりなど。歩いてゆけるところばかりです。

 私は東京のことをよく知らず、もっと知りたいと思っていました。このような調子ですから、どうして海外旅行をしたいと思うでしょう。したがいまして、旅行系サークルに身を置いてるにもかかわらず大旅行を一度もせずに、青春時代を終えてしまったのです。

 いまになって思うのです。東京に居続けても、東京のことが分かるとは限りません。旅行は、こだわりや執着を捨てる作業と思われます。

 ご褒美がなければ、人は動きません。自分もそうです。だから、自分へのご褒美を用意する必要があります。旅行で温泉が待っている。そして、至極怠惰な一日をすごすのです。うまい料理でも食えればより楽しいでしょう。

 人生自体が旅であり、始めるうんぬんではなく、すでに私たちは旅をしているのかもしれない。

 私たちの人生は、立ち去ることの繰り返し。哲学者のシモーヌ・ヴェイユは、このようなことを言っています。

魂は部屋から部屋へと旅をする。ついには神が永遠にわれわれを待ちつづける中枢の部屋に達するまで。

(引用:「カイエ」p.312)

 部屋の扉を開き、家のドアを開け、電車のドアを開き、駅の改札を開きます。扉が開いては閉じ、閉じては開く世界は、生きている間、永遠に続くでしょう。その末に、温泉宿が私たちを待っているはず。

 開き続ける星の数ほどの扉を、またひとつ開けます。

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