岩沼は江戸から仙台に入る者にとって最後の宿場、とは

歴史
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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小説家の司馬遼太郎は「岩沼は、江戸から仙台に入る者にとって最後の宿場」と書いています。これはどのような意味なのでしょう。岩沼と仙台の間に宿場町はなかったのでしょうか。このことについて考えてみたいと思います。

 司馬遼太郎が仙台藩の風儀の奥深さについて記した紀行文集『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』。この本のなかで、岩沼を「岩沼は、江戸から仙台に入る者にとって最後の宿場」と説明しています。

私どもは、仙台南方の田園にいる。阿武隈川の河口を亘理大橋から望んだあと、川の北岸に位置する岩沼市に入った。岩沼は、江戸から仙台に入る者にとって最後の宿場だった。芭蕉もここにとまっている

司馬遼太郎. 『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』街道をゆく 26 嵯峨散歩、仙台・ (p.136). Kindle 版. 

 これはどのような意味なのでしょう。岩沼と仙台の間に宿場町はなかったのでしょうか。

奥州街道と江戸浜街道

 現在でいうところの岩沼市は仙台から約20キロ南に位置します。市の東部には仙台国際空港があり、東北の玄関口にもなっています。

 江戸時代、この岩沼から仙台へいたる道に「奥州街道」がありました。現在の国道4号線です。この街道にある宿駅の一つが岩沼宿で、後には増田宿、中田宿、長町宿などが続いていました。

 岩沼から北に下ると名取川が流れています。東京都を流れる荒川ほどの大きな河川です。

名取川(写真:PhotoAC)

 名取川にまだ橋がなかった時代(橋ができたのは仙台藩主2代目になってから)は舟で渡るか、浅瀬を徒渡りするほかありませんでした。橋も洪水で流されてしまったこともあったでしょう。大水で渡れない時は宿泊する必要があります。

 この名取川があるため、南岸側の地域に作られた宿場が中田宿です(名取川は、享保の時代に「中田川」と呼ばれていたこともありました)。JR南仙台駅周辺の地域です。現在も旧家が並び宿場町のおもかげがあります。

 川を渡ると次の宿場は長町宿です。現在の長町駅周辺は商業地域で開発が進み、高層化された街並みとなっています。2、3年前に妻と長町でお茶を飲んだときは、まるで東京・吉祥寺のおしゃれな喫茶店にいるような気分でした。私が持つ1980代の記憶では、JR長町駅周辺には、まだ古い木造家屋が並んでいました。味わい深い枯れた雰囲気があったものです。

 岩沼が「江戸から入る最後の宿場」と描写されてしまうと、その後に宿場がないかのように読めてしまいかねません。司馬が言う「江戸から仙台に入る街道」とは奥州街道のことではなく、「江戸浜街道」(旧国道6号)のことと思われます。現在の東京都荒川区方面から始まり、岩沼で奥州街道に合する街道です。この江戸浜街道は、江戸からみると、岩沼宿が最後の宿場でした。

 岩沼市から仙台市までの移動時間を目安にしますと、自動車で約1時間、徒歩なら約4時間です。江戸からの道は江戸浜街道から奥州街道に変わり、途中の宿場で休憩をとりながら、仙台への旅はもう少し続きます。

【参考文献】『仙台藩歴史事典』仙台郷土研究会、『中田の歴史』中田の歴史編集委員会

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