『ザ・ファブル』 ウソで固めた過去を背負って毅然と生きることは可能か?

随想
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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漫画『ザ・ファブル』には夢中になってしまった。毎日欠かさず数話ずつ読み進め、22巻中20巻までたどり着いた。いま話題のフレーズで言えば「生娘がシャブ漬け」になるくらいの中毒性がある。 殺し屋兄妹が「ふつうの人」の暮らしを試みる物語だ。

最強の殺し屋である兄・佐藤明。この名前は偽名だ。誕生日もウソ、運転免許や履歴書も偽造と虚偽である。健康保険証や住民票など、ありとあらゆるものが偽造されているだろう、と読者には連想させる。佐藤が属している組織が大物政治家とのつながりを持っている、という設定がこの無茶な世界観を担保している。

殺し屋の佐藤明は、困難な状況でも動じない安定した精神力と判断力を持つ。戦いの場では、最強故に負け知らずの安定感が読者を安心させる。困難な状況をやすやすと乗り越え、極悪人を成敗し、恩にはしっかり報いる。佐藤明の痛快さに読者は『北斗の拳』のケンシロウに通じるカタルシスを得られる。


ウソで固めた過去を背負って毅然と生きることは可能か?

ウソまみれの過去を持つ人物が「ふつうの人」として生きられるものなのだろうか。 現実的にはかなり難しいだろう。 運転免許の更新、結婚、就職……。相手方にどのように説明するのだろう。このあたりを考えはじめると『ザ・ファブル』は楽しめなくなる。この漫画は真にハードボイルドではなく、ファンタジーなのだ。

地下の世界に住む住人が、名前も健康保険証も職務経歴もすべて作り変えて表の世界で生きること。この悲哀を感じさせる小説がある。ハードボイルド作家・中川文人さんがウェブでも公開している小説『黒ヘル戦記 第七話 失踪者』だ。

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ここでは、地下に潜って逃走するテロリストが描かれる。追われる身ゆえに、恋には背を向け、定住するような定職には就かない。自分ではない「誰か」として生きることを強いられる。

いまここに存在しているという「実存」。地下に潜る生活をしていない私たちも、存在のあやうさを感じることがある。

あやうい実存の味わい

常に私たちは、突然に何者でもなくなってしまう不安を感じているし、実際にそれは起こりうる。「生娘がシャブ漬け」を発言したエリートのおじさんが、一夜にしてなにもかも失ってしまったように。

この身に覚えのある感じ不安と悲哀は苦しみではあるが、味わいでもある。

『ザ・ファブル』には人生の悲哀の味わいは感じはないものの、痛快なファンタジーに夢中になる。最強の暗殺者「ファブル」こと、佐藤明は向かうところ敵なしだ。彼の生き様は私自身の人生と重ならない。それはそれでよいのである。

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