【アラブの春】民主化運動がなぜISを勢いづかせたの?(1)ジャスミン革命

レビュー
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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ジャスミン革命

ニュースや新聞で、「アラブの春」という言葉を耳にします。「春」というと、ぽかぽかしてポジティブなイメージがありますが、この民主化運動がどうしてIS(イスラム国)を勢いづかせるきっかけになったのでしょう?今日まで影響を及すこのできごとを、おさらいしてみたいと思います。

アラブの春は、2010年から2012年にかけて発生した民主化を求める大きな騒乱です。北アフリカのチュニジアで起きた「ジャスミン革命」から、アラブ世界に波及してゆきました。ひきがねは、2010年12月17日、チュニジアにある小さな町で起きた露天商の焼身自殺です。

Mohamed_Bouazizi

File:Mohamed Bouazizi.jpg – Wikipedia, the free encyclopedia

露天商は、モハメド・ブアジジという26歳の若者でした。当時、チュニジアの青年たちの失業率は30パーセントの高さで、ブアジジは家族を養うために街頭で果物や野菜を売って生計をたてていました。

この日、ブアジジは女性警官に、果物と秤を没収されてしまいます。許可を得ていないというのが理由でしたが、賄賂が欲しかったのです。ブアジジに平手打ちをくらわせ「貧乏人」とののしって去って行きました。

没収された秤は友だちからの借り物だったので、ブアジジは役所で何度も返すよう訴えます。が、賄賂を払うお金がなかったので、相手にされません。絶望と怒りのなか、ガソリンをかぶり抗議の焼身自殺をしてしまいました。

この事件は、ソーシャルメディアによって、チュニジア全土にたちまち知れ渡ります。イスラム教は自殺することを禁じており、しかも火葬の習慣もないので焼身自殺が与えた衝撃は大きかったのです。

このできごとを目撃した人たちが集まり、役人の腐敗した横暴さを抗議しました。しかし、この混乱を地元メディアは取りあげません。言論の自由がなかったからです。それに代わりTwitterやFacebookでたびたび投稿され、腐敗した役人に抗議するデモやストライキが全土に広がってゆくことになります。

この急速な広まりに、長期独裁を続けていたベン・アリー大統領は震え上がりました。デモの鎮静化をねらい、まだ息のあったブアジジを見舞います。その映像は国営放送で大々的に流されました。 しかしその一方で、大統領は軍にデモ隊への発砲を指示。多くの死傷者がでます。その映像もソーシャルメディアに投稿されました。国民の怒りは収まるどころではありません。デモの主張は横暴な役人への抗議から、23年にわたる独裁政権の打倒に変わってゆきました。

権力をまえにたちあがる市民の動きは、兵士たちにも伝播し、軍は市民への発砲を拒否します。

2011年1月14日、大統領は政権維持ができなくなり、とうとう国外へ亡命。ブアジジの焼身自殺からわずか一か月で、チュニジアの独裁政権は崩壊してしまったのです。 この民主化運動を、チュニジアを代表する花であるジャスミンにちなみ、「ジャスミン革命」と呼ばれています。

チュニジアのこの動きは、TwitterやFacebookだけでなく、アルジャジーラという衛星放送のテレビ局を通じても、アラブ世界一帯に伝わることになります。こうして「アラブの春」と呼ばれる独裁政権に対する異議申し立てが、北アフリカや中東に拡がってゆきました。

アラブの春は、対抗勢力の指導で新しいシステムを作ろうとしたものではなく、意義申したての動きでした。それゆえ、独裁に抑えられていた古い勢力を解き放つことにもなります。こうして、ISのような勢力が台頭し、混乱する状況が今日まで続くことになるのです。

【参考文献】

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