カゲヤマ気象台 作・演出「仏門オペラ」劇評

レビュー
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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お知らせ
本記事は2011年9月4日に公開したものを、2017年5月19日に加筆修正したものです。

 

字幕のある演劇

 立ち寄った芝居小屋では、劇作家で演出家のカゲヤマ気象台が生みだした言葉で満ちていた。ストーリーテラーとしての、若い才能をみなぎらせていた。

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 演劇も、言葉をつかった芸術である。輝く言葉との出会いはかけがえない。すばらしい本との出会いが、読者に変身のきっかけを与えるように。

 奇妙に思われるかもしれないが、それらの言葉を役者たちのセリフで、出会ったわけではない。字幕だった。劇場内に設置されたモニターに映し出されていた。役者たちは罪もなく口ごもる。

 役者たちに付された演出は難しくて、よく分からない。話すことが不自由な者のように、役者たちは発音をうまくやらない。文字どおり、何をいいたいのか、よく分からない。セリフの内容と一致しない身振りや手振り。あえて滑舌を悪くしたセリフ回しとか。

 役者たちの身振りから、私は古い友人を思い出した。脳性マヒの重度障害者で、現代詩人の故・和久井孝美君である。彼が発する言葉を、ふだんつきあいのない第三者が聞き取るのは難しい。介護者や友人が「通訳」をかってでる。この舞台の字幕同じ役目だった。

説明的であることへの拒否

 こうした役者たちの、舞踏的というか、身障者的な演出は、本来誘い込むようなセリフを伝えるために必要だったのだろうか…。「仏門」という切り口と、何か関わるのだろうか? そもそも、役者に演技のやり甲斐はあったんだろうか。役者の個性はそぎ落とされ、去勢されていた。

 カゲヤマ気象台が、大胆に拒絶したのは、作品が説明的になることだったのかもしれない。作品が説明的であることは、多くのジャンルで好まれないものである。絵画であれ、演劇であれ。どこかしら言い訳めいたもの、クライアントにこびた凡庸なものになってしまう。

 なにごともさじ加減は難しい。拒否しすぎると、難解な抽象絵画のごとく、お芝居も難解になってしまう。本を読んでいるようなお芝居だった。言い方を変えれば、カゲヤマ気象台という作家は、本を書いても成功できるかもしれない。

【キャスト】

垣本朋絵(激情コミュニティ)
椎谷万里江(拘束ピエロ)
柴田周平
佐藤あい子
新上達也(劇団森)

【スタッフ】

作/原作:カゲヤマ気象台
舞台監督:牧紘(staff工房●ち)
舞台美術:金藤みなみ(Nichecraft)岡村結花
照明:綿貫美紀
音響:カゲヤマ気象台
宣伝美術:チャナ(梅酒が好きだな)・垣本朋絵(激情コミュニティ)
制作:飯塚なな子(Ort-d.d)
公演期間:2011年9月2日(金)~9月4日(日)
会場:神楽坂die pratze

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